1996年5月 | 放流問題をご教示頂く
H先生のお招きで水産庁の某研究所に1泊2日で、
研究発表の打ち合わせと水田調査のお手伝いをしてきました。
H先生には駅までの送迎、食事と宿泊、研究所内の紹介、お土産とバイト代まで頂き、今でも大変に感謝しています。
夜はH先生の宿舎に泊めて頂きましたが、そこで深夜まで淡水魚に関する様々なことをご教示頂きました。
その中で私が最も気になったことが「放流」でした。研究所はアユとかばかりではなく、
ウシモツゴなどの希少魚を増やして、放流してくれたら絶滅が防げるのにという内容を話すと、
H先生は放流に関する弊害をご教示下さいました。
それを理解できる頭のなかった私は放流問題が気になりつつ自宅に帰りました。
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1996年秋 | 放流問題を認識する
私は淡水魚に関する資料を探し求めて30箇所以上の図書館へ行き、
古書店も新幹線で名古屋から東京神田まで探しに行くほどでした。
読み漁るのはもっぱら淡水魚の本だけでしたが、
三重県で絶滅したとされていたオニバスという植物を私が用水路でたまたま発見し、
M先生に知らせたところ無断で新聞やテレビなどで紹介されてしまいました。
私はオニバスのことを知るため「レッド・データ・ブック 日本の絶滅危惧植物 日本植物分類学会 農村文化社 1993」
という本を読んでみたところ、オニバスよりも付録にあった
遺伝子の多様性保護?遺伝子資源?遺伝的変異?移種や植えもどしは避けるべき?という文字に目が釘付けになりました。
当時に淡水魚の世界は増殖放流してよかったよかったという活動ばかりで、
植物の世界がここまで先進的な考え方をしていることに衝撃を受けました。
H先生が放流に関してご教示して下さったことを思い出し、
私は更に調べてとうとう放流問題を認識することになりました。
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1998年 | インターネットに触れる
某所でインターネットが出来る状況にあったのと、
友達の家でもインターネットをさせてもらえたので、
淡水魚・タナゴ・放流などと検索していました。
当時ヒット数が最も多いと思われた検索エンジンgooで、
タナゴと検索してヒットしたのはたった47件(現在はGoogleで271000件)。
それら全てを閲覧することは簡単でした。
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1999年2月 | インターネットを自宅に導入
友達のおかげで格安に自作パソコンを完成させることができ、
テレホーダイを使ってほぼ全ての淡水魚関係ページを閲覧しました。
その中で「日本淡水魚タ○○保存会」というサイトが、
コンテンツが充実してアクセス数も多く淡水魚サイトの最高峰のようでした。
その保存会の活動は増殖放流して絶滅から守ろうとするもので、
私は「保存会が繁栄すると更に放流が増えるから何とかしよう」と危機感を持ちました。
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1999年5月 | 保存会にメールを送る
保存会の管理者Kさんに放流は問題がありますよという内容のメールをしてみました。
その日のうちにご返信を頂きましたがこちらの言いたい事が伝わっていないのか、
別の内容を取り上げたり指摘を流されたりして噛み合いませんでした。
そうしたメールのやり取りも何度か続き、保存会Kさんとは話が通じないと覚りましたが、
放流という文字が世界中に公開されていることを考えると、
このままではいけないという気持ちが高まり、
私が放流反対のサイトを作るしかないと決意しました。
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1999年夏 | ホームページを作成開始
「Wordで作る自分のホームページ」という本を買って来ました。
当時は個人でホームページを開設するには様々な高いハードルがありましたが、
保存会Kさんが出来て私に出来ないはずはないと信じて少しずつ進めて行きました。
まずタイトルは濃尾淡水魚類愛護会があったことにも由来しますが、
「日本淡水魚タ○○保存会」に似た「日本淡水魚類愛護会」にしました。
そしてトップページは保存会の背景色が黒色だったのでこちらも黒色にしました。
目次へ進むとカウンターと明るい画面だったので同様にしました。
この3つだけはあえて似せました。
本当は放流問題を中心に記そうと思いましたが、当時は放流万歳のページはあっても、
放流を問題として捉えているページは皆無でしたので、
いきなり放流反対!などと主張して痛いサイトが出来たと無視されるより、
反応を見ながら徐々に放流関係の話題を増やして行く方針を決めました。
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1999年8月27日 | 日本淡水魚類愛護会を開設
1999年8月26日には公開していましたが、翌日にカウンターを設置したため27日開設としました。
サーバ管理側と利用者の双方でまだインターネットはどういうものかという手探り感があり、
今では信じられないようなトラブルや苦労も2002年くらいまで続きました。
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1999年9月21日 | メールを無断掲載される
私が1999年5月にメールしたものが保存会に無断掲載され、
直ちにメールを送って抗議しました。
これまで保存会Kさんとは放流の考え方の相違だけでしたが初めて嫌悪感を抱きました。
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1999年10月20日 | 安易な放流という言葉を使う
メール無断転載を受けてから「淡水魚の標本」というページを1999年10月20日に新設し、
「飼えないからという理由で安易な放流は控えてください。
1杯のバケツに入った数尾の魚をサッと流すだけで問題がある場合があります。
放流に関しては、また別の機会に記す予定です。」と初めて放流について触れました。
「フリー掲示板」でも投稿して下さる方が増えたので、
1999年10月27日に安易な放流という言葉を使いました。
当時は保存会の掲示板に投稿されている方が、
フリー掲示板にも投稿下さっていて、
保存会とはまるで反対の放流を問題とする主張を記すには勇気が要りました。
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2000年8月12日 | 保存会の掲示板で議論
「さかなの放流の是非」というスレッドが保存会の掲示板に出来ました。
そのやり取りを見てまだ放流万歳の姿勢が見えたため、
2000年8月20日に放流に関する意見を投稿しました。
このスレッドは「続・放流の是非」「(続々)さかなの放流の是非」「(続々々)お魚の放流」と続き、
2000年10月1日までに計98記事が投稿されました。まだインターネット人口が少なかった時代にしては多い投稿量で、
放流の賛成・中立・反対論者に関わらず投稿者はとても心労があったと思います。
このやり取りで私の蟠りは熟し「絶対に保存会を潰す」と本気で思いました。
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2000年12月22日 | 淡水魚と関わるを新設
保存会にあったバケツを持って川に魚を放流している写真を見ながら、
安易な放流禁止!というタイトルの絵を描きました。
それを使って「淡水魚と関わる」というページを新設して放流問題を訴えました。
それからも徐々に放流問題に関する記述を増やして行きました。
ただ放流問題ばかりになると関心がない方は閲覧しないと考え、
飼育情報や淡水魚の写真も増やしながら、その中に放流問題を織り交ぜて知ってもらうことにしました。
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2001年10月24日 | 淡水魚リングを新設
「淡水魚と関わる」で使った絵を使用してリングバナーを作り、
「安易な淡水魚の放流は止めましょう!」というメッセージを入れて「淡水魚リング」を新設しました。
このような主張の強いリングに快くご参加下さった方々には本当に感謝しています。
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2002年 | 保存会が放置サイト化
保存会Kさんがご病気なのか保存会の更新と掲示板の投稿が少なくなり放置サイト化し始めました。
この頃から保存会を意識することは薄れ、
放流問題など淡水魚の諸問題を啓発する目的に切り替えました。
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2003年3月21日 | 移入魚を守る町を新設
「移入魚を守る町」は2000年前半から構想を持っていましたが、
岐阜県希少野生生物保護条例をきっかけに取り掛かりました。このページは様々な反響を頂きました。
裏ではたくさんの敵を作りましたが、今でも公開して良かったと思っています。
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2006年秋 | 保存会が閉鎖
数ヶ月ぶりに保存会へアクセスすると「お探しのページが見つかりませんでした」と表示されました。
私が日淡会を開設した目的はこの時点で終了したことになります。
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